能力主義の限界
「人は能力や成果によって評価されるべきだ」とされてきた。仕事で大きな成果を上げた人が昇進したり、テストでいい点を取った人が褒められたりするのは、まさに能力主義の典型的な例であり、世間の共通認識でもある。メリトクラシー(meritocracy)という言葉もある。
一見するとフェアなように思えるが、どうだろうか。
- 他人と比べて勝った負けたばかり気にするようになる
- 結果だけが強調され、過程や個性が埋もれてしまう
- 「自分なんて大したことない…」と必要以上に自信を失う
こうしたマイナスの側面が生まれていることについて、能力主義は棚に上げてはいないだろうか。
ここで、一つの思考実験をしてみる。
「何もない空間(壁も床もない、真っ白な世界)に、一人でポツンといる状況」を想像してほしい。道具もなければ、仕事もなければ、他に誰もいない。この状況下において「能力」とは何だろう?
- 釣りが得意でも、釣る魚どころか海もない。
- プレゼンが上手くても、聞いてくれる相手がいない。
- 音楽の才能があっても、ギターもピアノもない。聴衆もいない。
こうなると、「デキる」「能力がある」と証明することはできない。それはつまり、現代社会での「無能」と実質的に変わらないということだ。能力とは本来、環境や目的があって初めて意味を持つものである。現実世界には魚もいるし、仕事もあれば人も存在している。だからこそ能力を発揮できる。これは裏を返せば、他人や環境との関係性によって能力が成立していることの証拠でもある。
さらに考えを進めてみると、能力を発揮できる「環境」は、私たち自身が思っているほど自由に選べるわけではないと気づく。言い換えれば、環境を得られるかどうかには運の要素が多分に含まれるのだ。
- どの国や地域に生まれたのか
- どんな家庭に育ったのか
- どのタイミングでどんな人と出会ったのか
こういった要素は、自分で完全にコントロールできるものではない。天才ピアニストと呼ばれる人も、そもそもピアノに出会う機会がなければ「天才」になりようがない。
このように突き詰めると、「能力が高い=運がいい」と言い換えても大差ないはずなのに、「あの人は能力が高いから偉い」「価値がある」と賛美するのは、どこか釈然としないものがある。運よく能力を発揮できる環境を得た人ばかりが高い評価を得て、そうでない人が「努力不足」と責め立てられるのは、本当にフェアな世界観と言えるのだろうか。「無能」と見下すのは正当なのだろうか。
ここでことわっておかなければならないのが、これは妬みや嫉みではないということだ。能力を発揮できる人たちや、誰もが認める成果を残した人たちを「運がいいだけじゃん」と突き放すつもりも、「環境に恵まれて羨ましい」と愚痴るつもりもない。そこに隠された困難や努力は、私には測り知れない。
ただ、「個人の能力至上主義」という構図が果たして本当にフェアなのか――私はその点を問い直したいだけである。そして、そこにこそ、従来にはなかった新たな宝が潜んでいるのではないだろうか。